昭和四十七年九月三日 朝の御理解
X御理解第六十五節「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。」
皆さん信心を頂いておるという事、中でも、こうして金光様の信心を頂いておる、という事、中でも合楽に御神縁を頂いておるという事。その事が心から、有難いと思える時が、お互いあるだろうか。信心を頂いておるというだけでも有難い、中でも金光様の御信心を頂いておるという事。本当に有難い事だとこう思う。金光様の御信心を頂いておる中でも、合楽に御神縁を頂いておるという事は、何と有難い事だろうかと。
私はその真から有難いと思う心がなからなければ、信心を頂いておる値打ちはないと思う。頂いておる値打ちというものはです。本当に金光様の御信心を頂いておるという事が有難い。しかも合楽に御神縁を頂いておる事はいよいよ有難い。そこでまあ、有難いと思うておると致しまして、そんなら金光様の、御信心を頂いておると、いう事が合楽に御神縁を頂いておるという事が、どこがそんなに有難いのか、とこう究明してまいりますと、どういう事になるでしょうか。
皆さんどうでしょうか。自問自答してごらんなさい。金光様の御信心を頂いておるという事が、本当に有難いと。私はその本当に頂いておる事が有難いと分からなければですね、値打ちはないと思うんですよ、本当に。関り合いがない事はない。何かと言や、やっぱり合楽にお参りをする。やっぱ何かと言や、いよいよの時には、金光様、子供の時から言いつけとるけん金光様、と唱えておると、という位な事ではね。それでもないよりか、いいでしょうけれども。金光様を本当に、頂いておるという値打ちはない。
そこで皆さん、どこをそういう、頂いておる事が有難いと思われるか、という事。金光様の御信心を頂いて例えば、この六十五節を頂きますと、日柄方位は見るにおよばん、と。これはまあ、金光教の信心のひとつの看板というてもよい位でしょうねえ。金光様の信心しよりゃ、もう日柄やら、方位やら、言わんですむ。結婚であろうが普請作事であろうが、もうそげなこつは、金光様にお願いしてすりゃ、そんな事は心配いりません、と。例えば本当にそれを言い得る、信じ得ておるという事は有難いですねえ。
けれども金光様の信心を永年しておっても、やっぱりこの日柄も言や方位も言い、もうそれどころか、先月から、ある教会の総代さんをしておられる方の話なんか、聞かせて頂きますと、まあだ、今でも、例えば着物を断つ、裁ち物なんかします。それをいついつは着物を裁ったりしてはならない。もうそれをえらいその、やかましく言われると、いう人があるのです。金光様の信心頂いとっても、そこが信じられないという事はね、もう大体、本当に値打ちがないと思う位ですね。そんならあんた、何様でもよかじゃんのという事になるです。
ですからここのところのね、いわゆる天地の道理をよう分からせて頂いたら、成程教祖の神様が教えられるように、もう毎日毎日が天赦日なのである。毎日毎日が神様に、言うなら、頂いた日であり許された日である。今日は何をしてはいけないと許されない日があってよいはずがない。天地の中に、例えば家を建てるでもです。ここがよいの悪いのと、いうような考え方からです。使い勝手のよいのがよい家相じゃと、思い込まれれる信心。それを信じれれるという事は、金光様の信心しておれば、そうというのじゃなくて、天地の道理が分かるから、そう信じさせて頂くのであり。今日は私はいつもここのところを頂くのですけれど、今日はね。
「日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え」と、いうような、私は、その御教からです。本当にお道の信心頂いておればこそ、これが分かる。『私は今日御神前で腕をこまねいているのです。そして額口でこうやって、額押しをしているのですよ。子供の時よくやったですね、額押し。うちの若先生はもう子供の時から、えらいこの額が強かったです。柱にガツガツ持って行こった。そして喧嘩する時には頭からこうやってしよりました。そらもうえらい固い頭を持っとるです。子供の時そげんでした。私共なんかもういつも負けてしまいよった。そういう事なんです。額押しと言うのですか。腕はこまねいて、そして頭の力でこうやって押し比べをしとる。私はどういう事か分からなかった。
けれどもね、これは私は、頭だけで、言うなら頭脳だけで、人間の考えだけで力を競おうというような、行き方だと思う。手足は腕こまねいて、頭でしきりに考えとる。言うなら仏教の信心などはそうです。これはお釈迦様の思索から生まれた宗教だと思います。だから非常に哲学的です。もう哲学的と言うよりも哲学です。お釈迦様の言うなら、思索の中から生まれた。』例えばね、今日ここに六十五節に教えておられる事はね、ほかの宗旨宗派では、まあこれに似たり寄ったりの事を必ず言うんです。所謂お釈迦様の世界では、ここ迄は到達出来ません。キリストの説いた世界には、こういう世界はありません。もう生神金光大神御取次の世界に住む者にだけ許された世界です。
私はね、お道の信心を頂いて、一番有難いなあと実感する事はです。教祖生神金光大神御取次の働きのある世界に、日々生活をさせて頂いておる。そういう世界に住んでおる、という事がです。一番有難い。その事をかんで含めるように、教えて下さる合楽は、いよいよ尚更、有難いという事になるのじゃないでしょうか。合楽におかげを頂いておるという事。金光様の信心を頂いておるという事は、もう掛け替えのない、程に有難い、なあと思わせて頂けて初めて、信心も本当の信心がでけますし、その有難いと思う心が、御用にもなって表れてくるのです。
そげんああた金光様と言うたっちゃ、どこにでも教会はあるもんじゃから、いや信心信心と言うて、それは必ず金光様の信心じゃなくてから、仏教もありゃ、キリスト教もありゃ、天理教もあるし何々宗もあるんだと例えば、いう事位な事ではね。だから金光様の信心頂いている事の有難さを分かってはいないという事になる。それは金光様の信心頂いておるという事はいろいろ有難いと、例えば、あん時には、あんなおかげを頂いたから金光様が有難い、といったようなもんでは駄目なんです。
次に今度は思うようにならないとまた迷う、また止めたりする。けれどもね、例えば、迷信を言わんで住むとか、もう日々が天赦日、日々が有難い、勿体ないの、おかげが頂かれる世界。それは教祖生神金光大神御取次の、国に住む、世界に住む。やはりね、そうした、私は、所謂お釈迦様の世界があり、キリストの国があると思うです。そんならまちっと細かに言うなら、教祖金光大神の御取次を頂いておる世界にもです。頭の部分だけで信心を頂いておるという世界があるです。言うならば、高橋正雄先生あたりのような、大教学者でしたねえ、の言うなら世界があるです。
例えば安武松太郎というほどしの大徳を受けられた先生の世界がです。金光大神御取次の働きの中にあるのです。だから、私は合楽に御神縁を頂いておるという事は素晴らしい、と言うのです。それは大坪総一郎が頂いておる生神金光大神の世界の中にです。国の中にです。合楽国というのがあるのです。だから、どうも合楽の人達は違うと、例えばよくそんな事を聞きますね。他所の御信者から違うはずです、大坪総一郎の取次の世界があるからです。
だからその世界に住まわせて頂いて、何を学んだか、何を得たか、何を体験させて頂いたか、というところにです。値打ちがある。その値打ちの中でもです。これは金光教全般に言える事ですけれども。お釈迦様の世界にはない、キリストの言わば説き得なかった世界がある。だから今日ここに、御理解にお説きになっておるような事をです、頂かせて頂く為には、やはり釈迦もキリストも、一応は生神金光大神のお取次を頂かなければ、出来ない事になります。というほどしに素晴らしいです、金光教は。
だから問題はです。そういう有難い世界をそんなら、それは小さい、小さい世界なんです。金光大神の世界というのは、例えば信者がどれだけおるか知らん。それだけが金光大神の世界なんです。だからそういう素晴らしい内容を持っておる。昔、子供のとき陣取りというのをやりました。戦って、いわゆる戦い勝ちをする。そして領土が広くなるように。勿論金光様の御信心は戦いとか喧嘩で広めていくのじゃありません。いわゆる和賀心時代を創るという事は、そういう素晴らしい、尊い世界をです。これを世界に広げていこう。現在の金光大神の世界というのは、素晴らしい。素晴らしいけれども、まだ小さい、だからそれを拡げていこうというのが、和賀心時代を創ろうという事なんです。
皆さんどうでしょうか。今日先生が言うておるように、金光様の御信心頂いておるという事が、合楽に御神縁を頂いておるという事が、自分も有難いと思うておる。焦点がすこし狂うておったならば正してゆかなければいけません。いよいよ間違いのない、本当なところに、そこんところの有難さというものを、いよいよ深めていかなければいけません。金光大神御取次の世界に、お生かしのおかげを頂いておる。いや、それは魂の世界に入ってもやはり、生神金光大神取次の世界に私共は、入ってゆけれるのだ。しかもその中に、合楽国というのがあって、その合楽の親先生のお取次を頂いて、いけれる世界がある。
只お取次を頂いておかげの受けれる世界におるというのが有難いというだけではなくて、それを極めてゆかなければいけません。これだけ金光教の独壇場、その中でも合楽はここだけは、合楽の独壇場だといったようなものを、把握して、それを自分の上にも頂かしてもらい。家にも頂かしてもらい。それを広めていく上に於てもです。その手をもって、世界真の平和を願い、その手をもって、和賀心時代を創っていくところの精進をさせて頂かなければならん。
『昨日一昨日の御理解を頂きながら、久留米の佐田さんが頂いておられる事。「玉水の若先生は心のおしゃれ」と頂かれた。この玉水という事。若先生という事は非常に意味があると思う。だからこれは、一番分かりやすく言うなら、「玉水の初代は心のおしゃれ」と言ったが一番分かりやすい、と思うですね。これはそんなら、甘木の初代だって、久留米の初代だって、そうです。もう素晴らしい心のおしゃれだった訳です。いわゆる心をいよいよ、言わば化粧する。
それは例えば真っ黒に汚れておってね、上からおしろいつけたっちゃ、それこそごんぼうの白いのごとなりますからね。それじゃいかんでしょうが。そん為にはまずいっちょ、地肌からね、整えなければいけない。きれいにしなければならない。為にはまずついておる垢なり汚れなりを、落とす事がまず先決。例えば整髪をする、頭をきれいにする。きれいに髪を結い上げる。自分の好み好みのピタッと身に合った洋服を着る、着物を着る。おしゃれの人を見てごらんなさい。もう実に、第一身のこなしが違う。わざわざ身のこなしをよくする為に、日本舞踊を覚えようという婦人がある位です。確かに日本舞踊を稽古しますと、身のこなしがよくなる。
もうそれこそ、下着類からの着付けが違う。そういう研究がある。最近は、着物を上手に着る教室なんてのがあるそうです。そういう学校のようなものが、だから婦人の人達なんかはやはり、より着物をよく、格好良う着たいという訳なんです。これは人間誰しもがそう感ずる事だろうと思う。折角の着物がね、やはり着付けが悪かったら、おかしくなる。やっぱりだらしなく見えたりする。男でも同じ事。ネクタイピンの例えば位置ひとつにでも、心を使う。帽子のかぶり方ひとつにでも、やはり鏡を見てから、こうやってかぶるでしょう。
もう本当にそれは、使い方ひとつでね、もうどんなにでもなるです。例えば私共、昔鳥打ち帽子というのをかぶったんですけれども。鳥打ち帽子をこうやって、あみだにかぶったら、アホのごと見ゆる。それかと言うて、深くかぶったら、刑事のごと見ゆる。だからやはりそのおしゃれというのは、それこそちょっとこう、横にかぶった、粋なかぶり方がある。というようにです。やはり工夫するのです、おしゃれは。ですから自分達の心のおしゃれというのはもう、いかに心を素晴らしく思うかという事を研究する。それはもう本当にもう、それは微妙なまでに心の使い方を、私は研究するのが金光様の御信心だと思う。
何故って、その心の使い方ひとつでね、おかげになったりおかげにならなかったりするのですから。しかもその使う心がです。磨かれておる。しかもそれに化粧までしてある、という結局、限りなく美しゅうなろう、限りなく美しくならして頂こうや、と合楽の合い言葉のように、昔、申しておりましたよね、というのは、そういう事なんです。美しゅうなろうという事はね、只、美しゅう着飾ろうという事ではなく、そこには、その内容としては、改まるという事と磨くという事がある。
信心は本心の玉を磨くもの。信心は日々の改まりが第一と、もう日々に改まっていくという事。日々例えば、本心の玉を磨いていくという事、改まるという事が垢を落とす事ならです。磨くという事がお化粧をする事。磨きをかけるそこに、いろいろな工夫がなされなければならん。話を聞くばかりが能ではない。わが心からも練り出せというのは、そういう例えば、心のおしゃれをしょうという練り出しでなければいけんという事になります。
玉水という事は、言うならお恵みの水の最高の水といった感じがする。それを親先生と頂かれずに若先生と頂かれたところが素晴らしい。というのは、その跡を継ぐ者という事なんです。その次の時代を担う者という事なんです。だから甘木の若先生はおしゃれと言うてもいい訳なんです。甘木の先生の信心を受け継ぐ者、久留米の初代の先生の信心を受け継がして頂く者。それは皆んな心のおしゃれにならなければ、そういう先生方の信心の内容に触れる事は出来ない。ただ話を聞いただけじゃつまらん、頭でひねっただけじゃでけん。』
仏教的な信心ならいざ知らず、ですから考えて考えて考え抜いた、挙げ句でもです。例えば御利益というような事、所謂おかげは和賀心にありというところに、到達してない訳です。磨いた上にも磨き、改まった上にも改まっていくところからしか、和らぎ賀ぶ心というものは生まれてまいりません。だからそれに精進するという事。その心には、おかげがある。それにはもう、げさくな心出して、下さい下さいと言わんでもいいのですよ。そこまで到達してないでしょうが。
キリスト教の場合でもそうでしょう。キリストは言うなら、大霊能者、と私は思います。そんなら大霊能者というのが、いつの時代にも出るとは、思われません。だからキリストの教えというものは、段々希薄なものになっていく、薄くなっていく。おかげの伴わない死んだ者を蘇らせるほどしの奇跡はなくなってくる、自然と。金光大神の御取次の世界に住む者、勿論生神金光大神が焦点である。けれども私共は例えば、初代なら初代またはおかげを受けられ、徳を受けられた先達または先輩の方達の信心を、継がして頂く、見習わしてもらう。その全ての事をです。共通するものは、全ての人が心のおしゃれであったという事。
表には木綿の着物を着ておっても、裏には絹の裏をつけるというほどしにです。これはもうおしゃれでなからな出来ませんよ。今頃私は何々女史という、有名な方から着物を頂いた。久留米カスリの着物、ところがその裏には見事な絹の裏が付けてある。もうその裏の色彩といい、所謂おしゃれな人は、そういう所に気を使う。表面よりも内容を大事にする心のおしゃれ人は。そういう生き方を教えて頂いておるのが、金光様の信者である。中でもそんなら合楽が唱えるように申しております事、和賀心時代を創るという事。天地の親神様の手にもならして頂こう足にもならせて頂こう。
ところが実を言うたら、金光大神のそういう世界というのは、もう実に実に小さい、他の宗教に比較して、仏教とかキリスト教に対して非常に小さい。そういう素晴らしいものを持っておるのですけれども。だからその素晴らしいものを、私共が頂いて、それを広めていくという責任がある。天地金乃神様のお心にお応えするという事は、神様の願いであるところの、和賀心時代を世界中に拡げていったら、世界真の平和はそこにある。または世界真の平和だけでなくてそこに豊かに恵まれる世界がある。和賀心にはおかげが伴うてくるという世界がある。
そういう世界をです。私共は世界に住んでおるのですから、私共がまず頂いて、それを広げていくという働きがいる事になりましょう。如何に例えば頭の力が強くても、如何に頭脳が明晰であってもです。それは丁度腕こまねいて、頭で押し比べしとるようなもんです。ですからやはり、その手が足が、まずこの五体全体がです。力を受けなければならない事が分かります。その力をもって、押しまくっていく。そこに金光大神御取次の世界、御取次の国と言う。その国が、段々広がっていく。それが天地金乃神様の願いである。天地金乃神様の願いがこの方一人に教えられた、いや頼まれた。それが金光教である。
教祖金光大神に神頼みなさったという事。ですから金光大神がそれを、二代様に三代様に、又は四代様に、それを継承しておいでられた。私共もそうです。小倉、福岡、久留米、そして三井、そして合楽というように、それを受け継がして頂く者がです。本当なものを受け継がなければ、次の者にそれを受け渡す事は出来ない。そこに私共は責任を感じさせてもろうて、いわゆる頭だけでなくて、例えばそういう傾向がある。いわゆる頭だけで考える。いわゆる仏教的になっていきよる。思索から生まれてくるものは、結局現在の仏教を見りゃ一番よう分かる。 位なものしか生まれて来ない。
教祖金光大神の世界にはね、和賀心という事を、目指す事によって、おかげがあるとおっしゃるおかげ、勿論心の上に、形の上に、人間幸せになる全ての条件が足ろうておるところの、おかげの世界というものが、金光大神の世界にはあるのだ。それを受けていかなければならない。そういうおかげの受けられておる。そういう事を教えて頂くという事が何とお道の信心に御縁を頂いたという事が、有難いという事になり、中でも合楽に御神縁を頂いておるという事は、何と有難い事だろうかと言う。その何と有難い事であろうかという焦点がです。今日私が申しましたところに置かれる事によって、いよいよ良い信心が育ってくると思うですね。どうぞ。